誰もが誰かに恋している。
神も人間も幽鬼も関係なしに。 それだから少年は迷いつづける。 誰も傷つけることなく欲しいものを手に入れることのなんと難しいことか! 「ボクは、間違っていたのかな?」 自嘲するような、歪んだ笑みを浮かべて、少年は反芻する。すべては里桜のために、そう思っての行動だったのに。自分は神と相反する幽鬼だから、代理神になってしまった彼女を独り占めすることが許されない。竜神が代理神を廃さない限り、里桜は自分より限りなく短い寿命を更に縮めてしまう。だから、大樹がいなくなったときに、決めたはずだった。裏緋寒の乙女を神嫁に据えて竜神を起こそう。と。
けれど雲桜を滅ぼした幽鬼を自分の身に封じ、闇鬼を心のなかで飼いつづけた逆さ斎の未晩があまりにも強く朱華を求めるから、つい、手を取ってしまった。もしかしたら自分も、未晩のように狂って堕落したかったのかもしれない。集落を、民草を護ろうなど、幽鬼のくせに人間のような真似ごとをしてしまう自分と袂別したくてできないもどかしさ。
彼女の半神だった大樹が、寿命の定められた少女のために禁術を使ったため、いなくなってしまったのだと彼女の口から伝えられたいま、ようやく安堵することができた。たぶん自分も、里桜が目の前で死んでしまったら、禁じられた甦生術を使ってしまうだろうから。もしかしたら、幼いながらに彼女も気づいていたのかもしれない。深く考えずに禁術を使って雲桜を滅ぼす糸口を作ってしまった朱華の……生命を紡いだ相手が、未来の、自分の運命を動かすおおきな鍵となることに。
「世界を変える『雲』のちからを持つ裏緋寒に選ばれた朱華ちゃんは、ぜんぶ思い出しちゃったのかな」 鍵は開かれた。記憶の封じは破られ、朱華はすべてを思い出す。雲桜が滅んだ前後に、彼女が経験したすべてを。 茜桜が与えたという莫大な『雲』のちから。生まれながらにふたつ名を賜れた花神のための花嫁だった朱華。『天』をも凌ぐ秘められたちからとは一体何なのだろう。それはちから無き逆さ斎、月の影のなりそこないと蔑まれたいきなり舞い降りてくる天神はすべてお見通しだとでも言いたそうにニタリと笑う。自分の前に現れることなど、いままで一度もなかったというのに……いや、二度目か。 颯月は苦笑を浮かべて小柄な少女を見つめる。里桜の侍女見習いだった氷辻のなかに、『天』の、消えた大樹の気配が残っている。里桜の言うとおり、ここに大樹の想いが残っている。「間違っているかどうかなど、すべてが終わる前から悩むでない。いまできることをしなければおぬしが望む彼女は、あの幽鬼に殺されてしまうだろうよ」 「なぜ……?」 まただ。邂逅する都度、彼女は自分に助言をする。自分は神と敵対する幽鬼であるにも関わらず、彼女だけは、自分の存在をこの世界で受け入れてくれる。「おぬしは相変わらず疑問ばかり投げかけてくるのだな。幽鬼だからすべてを廃するほど、神と呼ばれる存在は非情ではないぞ? それとも怖いのかえ? ずっと想いつづけた彼女に自分の正体を晒すのが」 「そりゃ、怖いですよ。ボクは幽鬼でありながら至高神に与えられた『風』のちからで彼女に控える桜月夜になることが叶ったんです。ここで欲を出してしまったから、こんな事態になってしまった……彼のなかの闇鬼を幽鬼に戻してしまったから……」「誰にでも間違いなどある。おぬしだけが悪いのではない。裏緋寒の番人がおぬしのなかの幽鬼のちからを求めたからだろう?」 「……なぜ、それを」 触れられたわけでもないのに、ぞくりと背中に氷を入れられたような感覚に陥る。とけて滴り落ちてくる氷水のように身体を伝ってくる至高神の言葉に、颯月は動揺を見せながら、小声で言い返す。「神とはそういう気配に敏くなければ生きていけないのじゃ」 人間には隠せても神には隠せぬぞと笑いながら、至高神はなおもつづける。「おぬしのまわりにおる神々はどれも不完全ゆえ、おぬしが幽鬼であることには勘付いておらぬ。だが、妾や竜糸の外の土地神はお主が何者か、すでに理解しておる。他の幽鬼と異なり、妾たちが愛する人間をむやみに傷つけようともせぬからな。のう、颯月……いや、涯(がい)と呼んでも構わぬか? 火の女神と幽鬼の間に生まれた息子よ」
誰もが誰かに恋している。 神も人間も幽鬼も関係なしに。 それだから少年は迷いつづける。 誰も傷つけることなく欲しいものを手に入れることのなんと難しいことか! 「ボクは、間違っていたのかな?」 自嘲するような、歪んだ笑みを浮かべて、少年は反芻する。すべては里桜のために、そう思っての行動だったのに。自分は神と相反する幽鬼だから、代理神になってしまった彼女を独り占めすることが許されない。竜神が代理神を廃さない限り、里桜は自分より限りなく短い寿命を更に縮めてしまう。だから、大樹がいなくなったときに、決めたはずだった。 裏緋寒の乙女を神嫁に据えて竜神を起こそう。と。 けれど雲桜を滅ぼした幽鬼を自分の身に封じ、闇鬼を心のなかで飼いつづけた逆さ斎の未晩があまりにも強く朱華を求めるから、つい、手を取ってしまった。もしかしたら自分も、未晩のように狂って堕落したかったのかもしれない。集落を、民草を護ろうなど、幽鬼のくせに人間のような真似ごとをしてしまう自分と袂別したくてできないもどかしさ。 彼女の半神だった大樹が、寿命の定められた少女のために禁術を使ったため、いなくなってしまったのだと彼女の口から伝えられたいま、ようやく安堵することができた。たぶん自分も、里桜が目の前で死んでしまったら、禁じられた甦生術を使ってしまうだろうから。 もしかしたら、幼いながらに彼女も気づいていたのかもしれない。深く考えずに禁術を使って雲桜を滅ぼす糸口を作ってしまった朱華の……生命を紡いだ相手が、未来の、自分の運命を動かすおおきな鍵となることに。 「世界を変える『雲』のちからを持つ裏緋寒に選ばれた朱華ちゃんは、ぜんぶ思い出しちゃったのかな」 鍵は開かれた。記憶の封じは破られ、朱華はすべてを思い出す。雲桜が滅んだ前後に、彼女が経験したすべてを。 茜桜が与えたという莫大な『雲』のちから。生まれながらにふたつ名を賜れた花神のための花嫁だった朱華。『天』をも凌ぐ秘められたちからとは一体何なのだろう。それはちから無き逆さ斎、月の影のなりそこないと蔑まれた
* * * 神気が竜糸の地へまんべんなく降り注いでいく。咲き始めていた桜の花はその勢いで満開になり、膨らみかけた桜の蕾も気押されて驚いたように花を開いていく。白と、淡い紅色の菊桜の花が、神殿の周囲を囲うように鈴なりに枝垂れ、薄暮の空めがけて一気に染め上げていく。 「――裏緋寒の記憶を戻したのかな?」 その事態に、未晩が顔色を赤くする。桜花よりも真っ赤な、憤怒の表情だった。 「朱華の記憶が、戻っただと……そんな」 そしてふたたび吐血する。 赤黒い血を吐きながら、未晩は押し寄せる神気に顔を顰める。立てつづけに自分の術を破られた未晩は、至高神に返された呪詛の衝撃だけでなく、別方向からも返しが襲ってきたのだ。赤かった顔色もすでに冷め、青ざめた表情はすでに土気色に毒されている。 「朱華は、誰にも渡すものか……ならば、雲桜のようにオレが竜糸を滅ぼしてやろう」 それでも、執念だけで未晩は立ち上がる。 亡霊のように身も心も幽鬼となってしまった彼には、すでに少年の姿も見えなくなっていた。「未晩?」 その変化に気づいた少年は、ぎょっとしたように未晩を見つめる。未晩は身体を傾いだ状態のまま、自らが吐いた血で染まった衣をまとった姿のまま、飛び出して行った。 真っ赤な禍々しい瞳が、ついに彼の良心を喰い破ったことを証明している。「……あーあ。堕ちちゃった」 少年はつまらなそうに呟き、術を放つ。 未晩が吐いた血に群がる瘴気は、少年の詠唱によって、四散した。闇鬼を生じさせない程度の薄さにしておけば、竜糸の民を巻きこむ心配は減るだろう。自分は竜糸の土地を滅ぼしたいわけではないのだ。未晩に封じられ、なかで闇鬼として飼われることになった幽鬼に従って雲桜を滅ぼしてしまったとき、もう二度とこんな想いはしたくないと、痛感してしまったから。 逃げまどう民を追いかけまわし、殺しては喰らい、弄んでは殺し、神を滅ぼす。その過程で見つけた少女の烏羽色の瞳が、悲しみで曇る
「どこが違う? 桜蜜ではなさそうだが、この状態なら神の魔羅を膣奥に受け止めて絶頂を教えてもらえばすぐにでも花嫁になれるぞ?」 「そ、そんなこと言っちゃ、いや……ああ……ん」 未晩と触れ合ったときはこんなにすぐ濡れるようなことはなかった。 夜澄だから、身体は喜んで愛液を垂れ流しているのに。 けれど朱華が言い返す間も与えられないまま、夜澄は性急に彼女の身体を貪りはじめていく。 夜澄の攻めは手だけでなく、舌も加わり、彼女を更に乱れさせる。 桜の蕾のようにツンと尖った乳首は交互に舐めてしゃぶられて、花を咲かせたそうに赤みを増している。 茂みをかき分けてきた彼のいかつい指先で秘芽に触れられた朱華は高い声で啼き、蜜をしぶかせ、夜澄を煽りたてる。「ひゃああんっ!」 「そんな声を未晩の前でも出したのか? ……悔しいな」 朱華のよがる声も、羞恥に染まる撫子色の頬も、潤んだ瞳も、極上の蜜も、ぜんぶぜんぶ独り占めしたい。 竜頭に渡してやろうと思っていた自分が莫迦みたいだと夜澄は朱華の嬌態を前に痛感する。 舐るように身体中を愛撫して、夜澄は朱華の身体が自分を求めて疼きだしているのを確認する。 処女ゆえになかなか蜜口は開かないが、それでも女芯に口淫を施したことで、いくぶんかやわらかくなっている。 その変化に朱華も気づいたのだろう、困惑した表情を浮かべながら、敷布をきつく握りしめたまま、呻く。「なんか、へん……夜澄、あたし……っ!」 「イくんだ。いままでもこれからも、お前が出す桜蜜はぜんぶ、俺が飲んでやるから」 「――っあああああんっ!」 秘芽をいたぶられて達した身体から甘美な桜蜜がとろりと溢れ出す。 蜜口から零れたそれを受け止めながら、夜澄の分身もまた、太く硬くなっていく。「たまらないな……」 「ぁああ……あぁ」 嗚咽にも似た彼女の声すら、極上の美酒のようで、夜澄は自分が溺れてしまったことを認めた。 十年前から心の片隅にいた、自分を忌術で蘇生させるという罪を犯し
きぃ、と寝台の軋む音とともに、朱華の身体が押し倒される。 夕暮れ時の湖に、淡い紅色の雲がたゆたうのを見届けてから、ふたりは朱華の室へ戻った。 そして、はじめのうちはぎこちなく唇を寄せ合い、互いを味わうようにゆっくりと触れ合わせていく。 口唇だけでなく、舌を絡ませあう口づけも加わり、なまめかしい音とともに唾液が銀の糸になって流れていく。「あ……ふっ」 「お前のくちびるは、甘いな」 夜澄の舌先が朱華の歯列をなぞり、吐息を漏らす彼女に官能を刻んでいく。 彼の手は衣の上から小ぶりな乳房を掬い上げ、揉み上げている。 小鳥が囀るように嬌声をあげる朱華の前で、夜澄は甘くてくすぐったい、恋する神々の悦びが謡われた神謡を口にしていた。 「Anramashu retar imeru arkishiri――美しき白い稲光よ、帰っておいで」 そうして優しい声で、夜澄は神謡を口ずさみながら、朱華の着衣を脱がせていく。 もうすぐ二十歳になるというのに質素な暮らしをしていたからか華奢な、触れれば壊れてしまいそうな身体だが、白い桜の花を彷彿させる生まれたままの姿は妖艶で、夜澄を欲情させるのに十分だった。 懐かしくて安心できる詠唱を紡ぎながら、ふたりはすべてをさらけ出す。 けれど、明るい場所で目にした朱華の裸体に刻まれた口づけの痕に気づいた夜澄が、不服そうな顔をする。薄まってはいるものの、幾度も同じ場所を吸われているからだろう、花びらのような形で痕跡が残っている。「まさか未晩とも、したのか?」 「……最後まではまだ」 「しなくていい……だから敏感だったんだな」 馬鹿正直に応える朱華に、ぶすっとした表情を浮かべながら夜澄は直に彼女の胸の膨らみを愛撫する。「……あぁっ」 「これからは俺が、俺だけがお前を愛してやる。だから、他の男のことなんか考えなくていい」 「ひゃん……!」 どこか焦りを見せる夜澄に、朱華は苦笑を浮かべる。未晩は朱華が怖い夢を見ないようにおまじな
あっさり言いのける朱華に、夜澄の方が思わずたじろぎ、顔を赤らめる。「師匠がしてくれたおまじないが、唇を媒介にしたものだったから、それを上回る行為となると、身体を重ねることくらいしか思いつかない。きっと竜神さまはあたしの身体を開いて記憶を元に戻そうとしたんだろうな、って……違う?」 「……違わないが」 お呪(まじな)い、か。 夜澄は朱華のかわいらしい言い方に苦笑を浮かべながら、彼女の肩を自分の方へ振り向かせ、ぎゅっと抱き寄せる。 「お前は、わかっていて俺に頼むのか?」 夜澄の身体に入り込んだ竜神によって記憶を取り戻すことだってできたはずなのに。朱華は竜神に貞操を奪われる前に、心の奥でとっさに夜澄を呼んだのだ。 だから夜澄は竜頭の邪魔をした。小雷神と蔑み追い払った。そして依代として入った竜頭に、あえて自分の気持ちを読み取らせた。 ――朱華(あけはな)は俺がもらう。彼女は俺の…… 竜頭はあれ以来何も言ってこない。表裏の緋寒桜を揃えて本体を地上に迎え、目覚めた彼が婚姻を結ばず土地神としてふたたび降臨することを了承さえすれば、朱華は竜糸の裏緋寒としての役目を終えられる。竜頭が彼女を神嫁にしないのなら、夜澄が彼女を求めても何の問題はない。 それに、彼女が絶頂を迎える都度分泌されるという神を悦ばせる桜蜜は夜澄にとっても抗えない、魅惑的な毒なのだ。「桜月夜と裏緋寒の恋は神々に認められていないって、星河は言っていたけれど。夜澄は桜月夜である以前に、神だったのだから、その制約には値しないよね?」 念を押すように、朱華が菫色の瞳を潤ませながら夜澄にきく。「ああ」 「ならばやっぱり、夜澄がいい」 「辛い記憶だとしても?」 「あなたが傍にいてくれるのなら、きっとあたしは大丈夫」 琥珀色の瞳に、黄金色のひかりが交わる。けれどそれは竜頭が夜澄のなかに入り込んだときよりも優しく柔らかな、白金の、月の輝きのような双眸。
雲桜が幽鬼の襲来を受けたとき。もしかしたら、夜澄を追った幽鬼が、偶然、雲桜の結界の綻びに気づいたから、一気に襲いかかってきたのだろうか? 朱華の言葉に、夜澄は哀しそうに瞳を伏せる。「いや。俺は雲桜の滅亡を目の当たりにしていない。あのときの俺は、自分のことで手一杯だった……」 あれから十年。 雲桜を滅ぼして満足したのか幽鬼はいったん姿を消した。危機を免れた竜糸はこのまま結界を守りつづけるぶんには問題なかったが、代理神の半神がいなくなってしまったことから、事態は急転する。 そして三人目の裏緋寒の乙女が朱華なのだと、夜澄は告げる。「今度こそ、竜頭を完全に起こしたいんだ。生贄にして一時的に驚かして地上に喚ぶわけではなく、神嫁を娶せて地上に縛りつけるわけでもなく……花嫁を迎えるにしろ迎えないにしろ、己の意志で、地上に居座って欲しいんだ……それに、これ以上、神の役割を担いつづける人間、代理神に負担をかけさせたくない」 代理神を担った人間の多くは、寿命を削り、若いうちに命を落としている。まるで湖に眠る竜頭が生気を吸っているかのように見えることから、不吉な神職であるとも、裏では囁かれているという。「……じゃあ、九重も?」 「おそらく。大樹さまがいなくなったことで、かなり無理をしているはずだ。強がっているから表面には出さないが……それに、昨晩、幽鬼とやり合ったようだし」 未晩が幽鬼になって現れたことを隠して、夜澄は告げる。忌術の呪詛がどうなったかは気になるが、そう簡単に表緋寒の里桜がやられることはないだろう。それに、かすかに天神の気配も感じる。こんなときまで母神に唆されるのはごめんだ。夜澄は心の中で毒づきながら、朱華の反応を確認する。「幽鬼が……?」 「奴もまた、裏緋寒に秘められたちからを狙っている。ちからが解放されるまであと二日ある、それまでお前は、戦おうなどと思うな」 「なぜ?」「なぜって、お前が表緋寒に認められた竜頭の裏緋寒だからだ……まだ」 眠り込んだままの竜頭を起こすための、鍵。表緋寒と裏緋寒が揃わなければ、竜頭の本体は目覚めな
「たしか、竜神さまが『雷』の集落を併合したことで、被害を食い止めたんだよね?」 竜糸に暮らす人間は竜神がかつてどのようなことを行ったのか、ひととおり学習する。朱華も未晩とともに竜糸で生活しているあいだに、自然に竜神のことを覚えていったのだ。 朱華の言葉に「ああ」と軽く頷き、夜澄はつづける。「ただ、そのせいで竜頭は力尽き、湖に眠ることになった。眠りにつく前に彼は代理神の制度をつくり、俺を桜月夜と呼ばれる守人の総代に命じた。すでに俺の身体は幽鬼との戦いでボロボロだったから、竜頭は幽鬼に襲われて死んだ俺の部族の人間の肉体に俺の魂を入れ替えたんだ……その人間の名だ、夜澄というのは」 「そう、なんだ」「竜頭にちからを譲り渡し人間の器に封じられた俺は雷神としてのちからは殆ど残されていない。五加護を扱うのも天から雷土を落とすのも楽じゃない。だが、そんな俺を面白がって時折天神がちょっかいを出してくる。竜頭に『雷』のちからを与えようが、あやつは小雷神でしかない、お前こそ真の雷神なのだ、裏緋寒の乙女を手に入れて雷蓮を再興させちまえ、とね……」 とつぜん裏緋寒の乙女という言葉がでてきて、朱華は瞳を瞬かせる。いま、彼はとんでもないことを口にした。初めて朱華と逢ったあのときのように……「そんな戯言真に受けるわけにもいかない。俺は竜頭に命を助けられたのだから、彼のための裏緋寒を自分が横取りしようとはもとより考えなかった。たしかに俺はもともとが土地神だからか、人間の身に魂を封じられても裏緋寒の乙女が誰か見ただけで判別できる。だから竜神が眠った竜糸を狙って幽鬼が襲ってくるたび、代理神に頼まれて竜頭のための花嫁を探してやった。だが、彼を目覚めさせることは未だに叶わない……あいつは熟女がすきだから」 真面目なはなしをしているはずなのに、最後のひとことですべてが台無しになってしまった気がする。朱華は呆気にとられた表情で「そう、だね」とうんうん頷く。現に朱華を湯殿で見定めた竜頭は「こどもではないか」と一蹴したのだから。「俺は三人の裏緋寒を選んだ。ひとりは水兎といい、彼女は当時の桜月夜、清雅……前世の記憶を持っている星河の前世だ……と禁じられ
里桜はひとりでは神の代理になれない。 大樹がいなければ、彼女は神と対等に渡り合える逆さ斎のちからを持つ表緋寒でしかない。結果的に夜澄しか朱華の記憶を戻せないことを、彼女はわかっていないのだろうか。「……そうかもしれない」 弱々しく頷く朱華に、夜澄は今度こそ彼女の肩を抱く。朱華は、拒まなかった。 「朱華(あけはな)」 ふたつ名を呼ばれ、朱華は驚いたように顔をあげる。「そういえば、夜澄はずっと、あたしの名前を呼ばなかったね」 「そういえば、そうだったな」 「それは、夜澄が神だから?」 朱華のことを「お前」と呼びつづけていた夜澄。なぜ、名前を呼んでくれないのかずっと不思議だったが、彼は桜月夜の守人のひとりの人間としてではなく、滅んだ集落の土地神の一柱として朱華と向き合うことを、はじめから考えていたのかもしれない。 ――神がふたつ名を無視して人間の名を呼ぶと、その人間と向き合っているあいだは神のちからを使えないから。「集落を滅ぼされた土地神が落ちのびたなんて、情けないだろ」 ぽつり、と弱音を吐く夜澄に、朱華は首を振る。「そんなことない、誰だって死にたくなんか、ないもの……」 幽鬼が雲桜を襲った時の記憶は、まだ完全に思い出せないが、それでも朱華は恐怖を感じる。実際に集落を滅ぼされた夜澄は、きっと、命からがら逃げ伸びたのだろう。「竜頭はそんな俺を匿ってくれた。幽鬼の襲来により壊滅した雷蓮(らいれん)の民を受け入れ、ルヤンペアッテの加護を分け与えてくれた。その見返りに俺は竜頭にちからを与えた。そのちからで彼は幽鬼を退けた。『雷』の集落は滅んだが、ルヤンペアッテの竜がアイ・カンナのを受け継ぐことになったんだ」 「アイ・カンナの閃光……」 亡き母親が口ずさんでいた神謡に、そんな物語があった。 自分たちが生まれる前に滅んでしまった『雷』の集落、雷蓮の民が持っていた加護のちから。それは、眩しいほどに明るいひかりと残酷なほどに世界を傷つける雷土(いかつち)の矢。『雷』の民